
|
江戸時代より代々越後刃物の伝統を受継ぐ鍛冶職人、『左藤蔵(HIDARI−TOHZO)』クオリティの高いモデルに『藤蔵』(鏡文字で)の銘を刻んで市場に提供しております。越後伝統の鍛造技術の粋を結集した仕上がりは、まさに芸術ともいえる逸品です。左藤蔵は、常に刃物を探究しており、料理包丁だけではなく、鍛造が難しいそば切包丁や山鉈、ナイフ、今では作る人も少なくなった刈込鋏まで鍛造技術や知識の幅が広く評価の厳しい刃物を作り続けています。その切れ味は素晴らしく、古くからの伝承に裏打ちされた丁寧な仕上げは見る者をうならせます。
左藤蔵は、鋼材にもこだわり、全国でも独自の刃物鋼材を使用しております。
【刃材質:日立金属安来鋼 銀紙8号】 (※新潟県工業技術総合研究所 強度試験:HRC62以上) 日立金属安来鋼 銀紙8号の包丁は左藤蔵独自の刃物鋼で、優れた切れ味とその維持、研ぎやすく、錆びにくく強い刃物を求めた結果トータルバランスが優れ、使う人を選ぶ本職用の刃物鋼です。
【煌王 有色積層鋼】 新潟初の有色積層鋼『煌王』(こうおう)は今までに目にしたことがないような煌びやかな模様が最大の特徴です。またそれは一丁ずつ模様が異なり、人間の指紋と同じで、同じ模様は二丁とありません。柔らかい金色と銅色の特殊有色母材を層のように何枚も重ね、硬い刃物鋼とを微妙な温度加減で鍛造する、従来の刃物作りでは考えられない手間をかけて出来上がっています。温度が高すぎれば、柔らかい有色母材は溶けだし、低すぎれば、鋼の切れ味は鈍るといった刃物の特性を知りぬき昔ながらより受け継がれてきた職人の全身の感覚で鍛え上げる鍛造製法と、現代の最先端特殊加工技術の融合により長い時間かけて完成いたしました。 【越後道楽】越後の刃物 左藤蔵 そば切り包丁・和包丁・洋包丁・鉈・剪定鋏・など
|
1.[燕の地名の由来]
口碑によれば、大昔、燕はススキゾネ、川柳(かわやなぎ)などと呼んだとのことであります。室町時代に白川庄の支配者
水原憲家が、嫡子 影家に、支配地の権利を譲る文書に、
一所 新恩
津波目(つばめ)分 右処領者 為又三郎景家名大譲渡処実証也 不可有他妨、仍譲与状如件 明応六年丁己十二月十三日 憲
家 花 押 水原又三郎殿 と、津波目の文字が四百七十六年前、初めて文書に見られたのであります。当時の新恩津波目は、神原地帯の一円と思われます。そのあとの正保越後絵図(約330年前)には、燕村の文字が見られ、つばめ、津葉目、?、津羽目などの文字が時代の移り変わるたびに文書に見られます。燕の地名が、いつごろ生まれたかは不祥でありますが、伝説として岡部茂伝次どんが、大川の氾濫のとき、燕の数羽とまった神棚を川原に拾い、燕の地名が生まれ、神棚の中に戸隠さまのお札があったので、信州戸隠神社より勧請し、鎮守さまにしたとのことです。 岡部茂伝次どんは代々、戸隠さまのお祭りに白幣を奉持、行列に参加しています。
2.[燕金物の元祖
(燕町)]
寛永年間(約350年前)燕郷は、幕府直轄の天領でありました。 江戸より、出雲崎代官に就任した大谷清兵衛が、領内巡視したところ、燕郷が洪水の為、ときどき川が氾濫して稲作が流れ、お米のとれぬことがたびたびありました。そのため農民は非常に苦しんでいました。 代官清兵衛は、農民を救うために、江戸から『和釘』職人を招き、農民に伝習して副業に奨励しました。天和年間(約280年前)燕は釘鍛冶千人といわれ、元禄十年(279年前)の江戸の大火に、燕から大量の和釘を輸送し、江戸城の火災には、燕から鍛冶職人が大勢仕事に出かけました。 燕が和釘をつくり始めてから幾星霜。艱難に耐えて築き上げた燕金物産業の生みの親は、出雲崎代官大谷清兵衛でありました。
|